記念日に 戦争悲惨を 呼び起せ2020年12月08日 22:39

この土俵入りは、田作3歳時の写真です。 長兄の一雄が撮影~写真にしたものです。 ・・なぜ?UPを?

12月8日は、昭和16年のこの日に、日本が米ハワイ真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発した忌まわしい記念日なのです。

それから間もなく、兄一雄は、ルソン島に出征し、大砲歩兵に就いたようです。そして、17年2月に敵の襲撃にあい戦死をしたようです。
・・戦後、帰還をした上官が、戦記録を届けて下さり、そこに記されていました。

長兄を3歳時で亡くした時の記憶は、殆どありませんが、 華々しく語られる真珠湾攻撃など戦記を耳にすると、・・やっぱり戦後の悲惨めな生活記憶を思い起こす事からも、戦争を憎む気持ちにしかなりません。

絶対!戦争はいけません。 戦争に向けようとする政治や教育等も断じて許すべきではありません。 末期高齢者の悲願です。念。

8人も 居たのに ひとり 残された~2019年12月04日 01:09

・・が、 11月30日朝、長姉サキ102歳の訃報通知が入りました。
11月29日7時22分、老衰の大往生という報せです。 
新聞朝刊のTOPを見て驚きました。なんと、同日・ほぼ同時刻・101歳の1つ違いの中曽根康弘前首相の訃報も、デカデカと報じられておりました。

・・そういう関係でもなかったろうに、二人が手に手を取って三途の川を渡っていくかもしれません。閻魔さんの関門も?どんなことになるのでしょうね??

長女と末っ子、田作とは20歳も離れているので、母親のような存在でした。なんせ、実母は46歳で田作を産んだのですから、学校の先生は実母は祖母だと、大抵がそう思っていたと思います。 

サキさんも理髪店の亭主と、戦後の混乱の中、男子4人を育て上げ、晩年には、村の一杯飲み屋を十数年も続け、楽しそうな人生であったように思います。葬儀にはその時の常連さん?とおぼしき多数の爺チャンが、線香をあげに来てくれていました。 よかったね~。

102年も永い間ご苦労さん。そして、ありがとう。

・・慌てて、印刷済の訃報ハガキに、ペンで追記をし、本日投函をしてきました。 8人兄弟姉妹も、とうとう田作一人が残されました。
がんばろ~。

7番目 84の 兄が往き2019年12月03日 19:41

続々と喪中ハガキが届きます。
自分が81歳なのですから、賀状の交換相手も然るべきご年齢、訃報が増えるのも当たり前です。
・・かくいう上野一家も、8月に四男の行雄が他界しました。
当家は多産系でもあったので、誕生後すぐに、父親の兄弟にあたる出口家の跡取りとして養子に入った、上野家7番目の兄です。

田作の3歳上の兄貴だったので、他家にいっても、田作の面倒をよくみてくれました。 極貧の田作の高校時代に、よく西部劇映画という高級娯楽に連れて行ってくれました。 田作にとっては、すごく貴重で贅沢な思い出を戴きました。 忘れられない思い出です。 ・・何かとよき兄貴でありました。 ありがとうございました。

出口家では「出口木工」を苦労して経営し、家具・建具の工務店経営を手広く展開し・・、そして、息子に後をたくし、悠々とあちらへ旅立っていきました。よき人生であったと思います。

これで、上野家の8人兄弟姉妹の内、長女のサキ(1番102歳)と、末8番の田作(本名:芳男)の2人が、残ったことになったのです。 ・・が、

次々と 母に重荷が のしかかり2019年06月20日 17:14

3- 亡父から5男3女を託された母親の(とめの) です。
3女の(まさ)は幼少時に病死し、4男の(行雄)は、父の妹家の跡継ぎに、養子として家を出たので、 実質4男2女の6人を任されて厳しい顔つきです。 下駄を履かされている ノー天気ガキは、たぶん田作でありましょう? とんがり口ですから。

時流は緊迫していました。

*S15・9、日独伊の三国同盟が調印されました。
*S16・6、ドイツがソ連に攻撃開始です。
*S16・10、東条英機内閣成立~武力発動決定
*S16・12・1、御前会議で、対米、英、蘭に開戦を決定
*S16・12・8、ハワイ真珠湾空襲 米英に宣戦布告 
・・・・大本営発表の大ウソで、日本は乱痴気騒ぎ…しかし、地獄に転がり落ちていきました。

上野家長男の一雄は、国家が全国に号令した”青年団”に自動的に入団し、当然のごとく俄か訓練もそこそこに、国の発した徴用令によって、
当たり前のように”赤紙”招集され、「ルソン島」の戦場最前線に連れていかれました。 20歳そこそこの青春時代のない出征です。
上野家の地獄の始まりだったと思います。

子だくさん 後はよろしく 頼むぞよ2019年06月20日 15:14

2- 父親の坂雄です。 (孫たちには…曾祖父だよ)

田作には面識がありません。…というのも、田作が1歳6か月時に、卒中で他界しているので、全く記憶の外の人なのです。 50歳そこそこの昇天であったと家族から聞かされていますが…写真もそれくらいです?

話では…、そこそこのヤリ手であったということです。出は三重県度会郡豊浜村(現伊勢市)の宮川河口の磯 の農家出ですが、伊勢市に出て色んな商売、(ランプ製造、古物商、食堂、カフェ、パチンコ店・・など)、を手掛けたそうです…。 
何でもやりたがる田作も、ちょっぴりDNAを受け継いでいるのかもしれません。 が、話は半分くらいが丁度でしょうか? …しっかり子づくりにも励み、8人も作っていきました。

前述のドイツがポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦の開戦の時期に、この世をおサラバしているので、悲惨な戦争の惨状は、天国から高見の見物をしていたことでしょう。
  
言ってみれば、8人も子を作り散らして…早死にして…、まあ、残された家族は大変(のよう)でした。 末弟は少々お気楽ですが?。

戦争行 特急列車で 生れ落ち2019年06月20日 13:28

1- 「ふりかえり」 の スタートです。 ご退屈でしょうが、お付き合いください。

田作(ごまめ)こと、上野芳男がこの世に出たのは、昭和13年2月26日です。 出生時の写真がないので、この写真がいちばん若い時の写真です。2~3歳でしょうか? 唇のとんがりがシンボルです。

この時期、わが国は「軍国日本」への急坂を転がりつつあり、世界各国もまた第二次世界大戦へと突入していきました。

*S11・2.26、皇道派将校1400人余が、首相蔵相等を襲撃した…  2・26事件。
*12・7・7、中国盧溝橋での爆破事件…日中戦争の勃発。
*12・12、南京占領、…南京大虐殺事件。
 そして、
*13・4・1、近衛内閣はあの「国家総動員法」を公布。
*13・7、張鼓峰事件で、日ソ両軍武力衝突。
*14・7・8、近衛内閣「国民徴用令」を公布。
*14・9、ドイツがポーランド侵攻で「第2次世界大戦」のゴング。etc

田作は、「戦争行特別列車の中で生まれ落ちた…」ようなもので、だから、戦争は絶対反対なのかも…しれません。

過去の事も 忘れぬ内に 伝えとこ2019年06月15日 16:37

新元号「令和」を迎え、平成や昭和を振り返る場面を、ちょくちょく見聞きします。 振り返って新しい時代を考える糧にすることは、良いことだと思います。

田作は、どちらかと言うと、過去のことより未来のことの方に関心が強い方ですが、当ブログのネタも、未来を語れる事が歳とともにだんだん狭まってきており、UPも途切れがちになってきましたので、過去の事にも範囲を広げてみようかと…。 それで、当ブログのカテゴリーに「ふりかえり」を追加してみました。

他人の昔話など興味のない方々も多いと思いますが、田作の記憶の薄れがち現象のこともあり、孫たちにも伝えておきたいことも少しはありそうなので…、追加をする気になりました。 よろしくご了承下さいませ。

信毎の過去の年表誌も参考になりそうです。