戦争行 特急列車で 生れ落ち2019年06月20日 13:28

1- 「ふりかえり」 の スタートです。 ご退屈でしょうが、お付き合いください。

田作(ごまめ)こと、上野芳男がこの世に出たのは、昭和13年2月26日です。 出生時の写真がないので、この写真がいちばん若い時の写真です。2~3歳でしょうか? 唇のとんがりがシンボルです。

この時期、わが国は「軍国日本」への急坂を転がりつつあり、世界各国もまた第二次世界大戦へと突入していきました。

*S11・2.26、皇道派将校1400人余が、首相蔵相等を襲撃した…  2・26事件。
*12・7・7、中国盧溝橋での爆破事件…日中戦争の勃発。
*12・12、南京占領、…南京大虐殺事件。
 そして、
*13・4・1、近衛内閣はあの「国家総動員法」を公布。
*13・7、張鼓峰事件で、日ソ両軍武力衝突。
*14・7・8、近衛内閣「国民徴用令」を公布。
*14・9、ドイツがポーランド侵攻で「第2次世界大戦」のゴング。etc

田作は、「戦争行特別列車の中で生まれ落ちた…」ようなもので、だから、戦争は絶対反対なのかも…しれません。

子だくさん 後はよろしく 頼むぞよ2019年06月20日 15:14

2- 父親の坂雄です。 (孫たちには…曾祖父だよ)

田作には面識がありません。…というのも、田作が1歳6か月時に、卒中で他界しているので、全く記憶の外の人なのです。 50歳そこそこの昇天であったと家族から聞かされていますが…写真もそれくらいです?

話では…、そこそこのヤリ手であったということです。出は三重県度会郡豊浜村(現伊勢市)の宮川河口の磯 の農家出ですが、伊勢市に出て色んな商売、(ランプ製造、古物商、食堂、カフェ、パチンコ店・・など)、を手掛けたそうです…。 
何でもやりたがる田作も、ちょっぴりDNAを受け継いでいるのかもしれません。 が、話は半分くらいが丁度でしょうか? …しっかり子づくりにも励み、8人も作っていきました。

前述のドイツがポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦の開戦の時期に、この世をおサラバしているので、悲惨な戦争の惨状は、天国から高見の見物をしていたことでしょう。
  
言ってみれば、8人も子を作り散らして…早死にして…、まあ、残された家族は大変(のよう)でした。 末弟は少々お気楽ですが?。

次々と 母に重荷が のしかかり2019年06月20日 17:14

3- 亡父から5男3女を託された母親の(とめの) です。
3女の(まさ)は幼少時に病死し、4男の(行雄)は、父の妹家の跡継ぎに、養子として家を出たので、 実質4男2女の6人を任されて厳しい顔つきです。 下駄を履かされている ノー天気ガキは、たぶん田作でありましょう? とんがり口ですから。

時流は緊迫していました。

*S15・9、日独伊の三国同盟が調印されました。
*S16・6、ドイツがソ連に攻撃開始です。
*S16・10、東条英機内閣成立~武力発動決定
*S16・12・1、御前会議で、対米、英、蘭に開戦を決定
*S16・12・8、ハワイ真珠湾空襲 米英に宣戦布告 
・・・・大本営発表の大ウソで、日本は乱痴気騒ぎ…しかし、地獄に転がり落ちていきました。

上野家長男の一雄は、国家が全国に号令した”青年団”に自動的に入団し、当然のごとく俄か訓練もそこそこに、国の発した徴用令によって、
当たり前のように”赤紙”招集され、「ルソン島」の戦場最前線に連れていかれました。 20歳そこそこの青春時代のない出征です。
上野家の地獄の始まりだったと思います。